南の大井、北の黒部―
 日本アルプスの最深部を切り裂くこの2つの急流を語らずして、
 南北日本アルプスを語ることはできない。

 大井川は、聖岳から北に向かって、赤石岳、悪沢岳、塩見岳、間ノ岳、
 そして、源流を巻くようにして農鳥岳と日本を代表する3,000m峰に囲まれている。
 そのスケールの大きさは日本随一であり、
 また、余りにも、下界から離れた世界であるため登山者以外には、
 あまりしられていない秘境でもある。

 鈍重な巨人に囲まれた大井川に対し、黒部川の流域に聳える3,000m峰は、
 立山一座あるのみで、南の大井川の5峰に比べれば、背丈は及ばない。
 しかし、五色ヶ原、雲ノ平、高天原の天国的な美しさは多くの登山者を魅了し、
 一般的な人気では、大井川源流域に圧倒的に勝る。

 前年、自分は10数年ぶりの登山にして、初めて自分の意思で山に登った。
 その山が、この黒部源流の一峰、鷲羽岳である。

 そこから見た景観はそれまでの自分の山岳観を一変するのに、
 十分な力があった。繊細かつ、豪快な山々の連なりはいつまで見ていても、
 全く、飽くことがなかった。

 特に正面にどっしりと構えた薬師岳の姿には惹かれた。
 田部重治曰く、

 「…私はどうしても、遅くも、翌年には薬師岳に登らなければならないと思った。
 …中略…家に帰ってから、私は薬師岳や有峰のことを考えた。
 約十日ばかり経って、立山に登った疲れが癒った時、
 私の薬師へ登ろうという考えが俄かに盛になって、
 翌年を待っている考えの儚なさを笑った。」

 それほど、魅力的なのだ…。
 流石に、自分は田部重治ほどせっかちではないので、
 翌年を待つことにした…。